裁判の歴史

 原始・古代

人が集まれば争いが起こり、争いが起これば仲裁が必要です。
今でこそちゃんとした裁判制度が整っていますが、大昔はどうだったのでしょう?原始(弥生時代)以降、農耕社会が形成されるにつれて、さまざまな儀礼が生れましたが、人々はすべての物に神が宿っているとしてその神を信仰していたので、当然ながら人を裁くのもその神でした。そこで、紛争解決手段として用いられたのに盟神探湯(くがたち)というものがありました。
熱湯に手を入れて、手がただれたらその人の主張はうそであるとされる神判です。
古代になると領主などの支配者による裁きが行われましたが、当然その領主らの権利や利益が判断の基準になっていたので、公正な裁きはとうてい望めず、とにかく現在の裁判制度とは程遠いものでした。

中世・近世

中世に入ると国主や領主等の支配者たちが裁判官となり、自分たちの権利や利益 が判断の基準となっていました。江戸時代になると、江戸や大阪の大都市に町奉行という役職が置かれるようになりました。そしてその奉行の呼び出しを受けた訴訟人、付添人が法廷に入り審理を受けるわけです。奉行とは奉行所での親分にあたる人のことで、おなじみの大岡越前や遠山金四郎がそれにあたります。当時、審理をする上でその基本となったものは「公事方御定書百三か条」で、訴訟に携わる者にとっては日常的に六法全書のごとく座右になくてはならないものでした。
ちなみに、当時はまだ三権分立はなく、町奉行は裁判所であると同時に警察でもあり役所でもありました。

近代(明治~戦前)

明治22年、大日本帝国憲法が公布され、それにより司法権は、天皇の名において法律により裁判所が行使することが定められました。現在の最高裁判所にあたる大審院をはじめ、すべての裁判所の玄関には”菊の御紋”が飾られ、それにより裁判所の威厳が保たれたといいます。警察や検察による拷問が当然であった当時、「天皇の裁判官」たる判事も決して公正ではなく、拷問により自白を強要されたことを判事に告げることは再度の拷問を意味しました。そんな「天皇の裁判」だった日本に、民衆参加の陪審制度があったことはご存知でしょうか。
大正12年に成立した陪審法に基づき、昭和3年、12人による陪審裁判が開かれました。
しかし、裁判所は不適当と思われる陪審決定に従う必要ははなく、陪審員をとりかえて何度でも裁判できるという、あくまで「天皇の裁判」といえるものでした。
にもかかわらず、国民の関心は高く、大戦の激化で昭和18年に廃止されるまで実に25192件が陪審適合事件として受理されました。ちなみに、月給100円が高給とされていた当時、陪審員の日当は5円、食事代は25円という実情だったようです。

現代(戦後~平成)

昭和21年11月3日、日本国憲法が公布されました。それまでの天皇主権は国民主権と改められ、国民には基本的人権が保障されるようになりました。それに伴い、たとえば民法においては戸主が家族を統率するとされた戸主制度や家督相続制度が廃止されたり、男女、兄弟、夫婦の同権が定められるなど、諸制度の民主化が進みました。その中で裁判制度も当然に民主化されていったわけですが、最高裁判所裁判官に対する国民審査制度や、裁判官弾劾制度などがその一例です。
中でも特徴的なのは刑法の改正で、それまでの大逆罪、不敬罪(共に皇室に対する罪)や姦通罪(妻の不倫の罪)などは廃止されました。
さらに、それまでは自白さえあれば犯罪事実を証明できたので、自白をとるための拷問が横行していたのに対し、改正後は自白だけでなく物的証拠があってはじめて犯罪事実の証明となるという証拠主義がとられるようになりました。また、黙秘権が保障されるなど、戦後様々な権利が国民に与えられ、今日の裁判制度が形成されたといえるでしょう。

神奈川県弁護士会・港都綜合法律事務所